役職
まとまってないな。書き直し予定。
# 水戸家の備前守 『水戸徳川家の附家老に備前守がいる。彼は一時備中守に叙されてもいる。のちにまた備前守になっている。
ここでこれらの叙されて時にその国を統治しているのか否か。そのとき備前の国には主はいなかったのだろうか?ほかにも何処かの国の家臣で出羽の守だったり、名前とその国への努めなど疑問があります。教えて頂けるとありがたいです。』
# 織田上総介信長 『本当に千葉県を治めていたのでしょうか?
守 を調べていてここに行きあたりました。左記の質問も含め当方よたろうが発しました。宜しくお願いします。/by よたろう』
と、いう質問が5月31日のコメント欄に、9月20日になされていたことを今日発見。あわてて返答いたします。見てますでしょうか、よたろうさん? 10日も前だからもう見ていないかも。
でまあ、結論から先に言いますと彼らはその土地を統治しておりません。その時代、そうした称号は土地とは結びつかず、朝廷での偉さを表すに過ぎなくなっております。
調査は後からするとして記憶だけで書きますと、当初は確かに任地に赴いたりしておりました。が、平安時代も進みますと自分は京から動かず代官を任地におくようになります。そこで代官たちは自分たちで権力を持ちたくなりますが、その後押しをしたのが源頼朝。彼は処方の地侍からの支援を受けるために勝手にそこの統治者である、とのお墨付きを与え始めます。それが守護職や地頭職です。
これより政治の実権は鎌倉幕府、室町幕府と幕府に移っていきますので、律令制における官位は土地に結びついたものでなく、朝廷から与えられる朝廷における偉さをあらわす地位に過ぎなくなっていき、実際に土地との結びつきをもつのは、幕府から与えられる守護職となります。
そう国司の官は朝廷での役職であり、裏に権力者の意志が働こうとも任命するのは朝廷であります。そして守護職は幕府の職であり、裏に権力者の意志が働こうとも任命するのは幕府であります。
上の質問にあります、織田上総介信長の場合を考えてみます。
まず越前守護である斯波義重が尾張守護を兼任することになり、その部下である越前織田荘を出自とする織田氏が尾張守護代となって、尾張守護の職務を行います。のち応仁の乱の折、斯波氏が分裂すると織田氏も清洲と岩倉の二家に分裂し、守護代家が合争いその力を失ううちに、清洲守護代家の家臣であった信長の祖父は主家以上の力を付けて行き、信長の代に至り守護代家は滅ぼされました。
この時代になると幕府はその権力をなくしており、守護大名の名称はその土地を掠め取ったものが名乗り、そこから吸い上げた金を朝廷に献金することで、より高位の国司の位を買い取れました。
水戸家の備前守にしても同様でしょう。江戸幕府においてその地位を高めたため、その高さに応じた国司の位が朝廷から与えられたに過ぎません。また守護という鎌倉や室町幕府の職制は、江戸幕府においては存在しておらず、実際の土地の支配権は江戸幕府による幕藩体制によって決められているので、その朝廷による国司の位に応じた土地を支配していたわけではありません。
日本の旧国、全国六六国二島は律令制で、諸国を人口などによって大国・上国・中国・下国と分けていまして、どこの国の守かによって官位が代わってきます。