『Land of the Samurai』な時代:その3

 まさに清少納言がエッセイ書いてて、紫式部が小説書いてて、エローい和泉式部が20前半のピチピチで、藤原道長が「オレ最高!」と歌を詠んだ豪華絢爛、平安貴族万々歳な雰囲気漂う煌びやかな国風文化なこの時代、西暦1000年前後、ちょっと目を横に逸らしてみます。
 道長四天王に数えられるほど武勇に秀で、和泉式部の夫であった藤原保昌。この弟、藤原保輔は「袴垂」と呼ばれた盗賊でした。同じく道長四天王の一人である源頼信の兄は源頼光で、そうなると当然、頼光四天王でてくる訳で、酒呑童子茨木童子、土蜘蛛も同時代になります。彼らが鬼ではなく単なる盗賊や土豪など、まつろわぬ民であったとしても、そうした者たちが跋扈する世界でもありました。ちなみに坂田金時を祭る神社の社伝によると、酒呑童子退治は990年の出来事だそうです。茨木童子は後日談ですので、990年以降のお話になります。
 また茨木童子というと羅生門な訳ですが、これは980年夏の暴風雨で倒壊しその後再建されること無く放置され荒れ果てています。羅生門を守護する形で立てられている東寺・西寺のうち西寺は990年にほぼ焼失してしまい再建されていません。いずれも1001年にはすっかり廃墟の面持ちでしょう。それだけではなく『池亭記』によりますと

われ二十余年以来、東西の二京をあまねく見るに、西京は人家ややく稀にして、ほとほとに幽墟にちかし。人は去ること有りて来ることなく、いえはやぶるること有りて造ること無し。その移り住む処無く、財貧にはばかること無き者は是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、まさに山に入り田舎に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者、一日といえども住むことを得ず。

 という風に、幅84mほどの朱雀大路*1によって左右に別けられた京の西半分、右京もまた廃墟に近しいものがありました。
 そして995年には疫病(はしか)が流行り、14人いた中納言以上の公卿のうち8人が死亡します。またこれは宮廷だけではなく、関東も含め各地で995年ごろに疫病退散を願い(摂津国白川大歳神社)、もしくは疫病退散を祝い(武蔵国徳丸北野神社)神社が建てられているなど全国的な規模であったようです。食事もとれ、当時なりの手厚い看護も受けられたであろう公卿ですら14人中8人死亡なわけですから、民間には相当の被害があったのではないでしょうか。
 まあ平安時代ってのも源氏とか枕草子だけで考えてると後ろからバッサリやられちゃうような世界だったわけです。

*1:幅84mほどの朱雀大路:大阪に親しい人に判る言い方だと、御堂筋のほぼ倍の太さになります。