江戸時代の貨幣

 朱鷺田氏のブログ「黒い森の祠」にて戦国〜江戸の通貨について触れられていたので、手元の手帳を繰ってみる。既に調べはついているような気もしないではないのだが、私自身のメモとしてって意味も含めて記しておくよ。

  • 1両=4分
  • 1分=4朱
  • 1分=金100疋

 小判(1両)と一分金が基本貨。
 二分金・二朱金・一朱金は元禄の改鋳以降に造られた。
 大判(額面10両)は小判などとは別途の扱いで、相場両替。

 秤量貨幣が主体で貫・匁(20以上で下一桁が零の時は「目」)制表示。丁銀・豆板(小玉)銀は秤量貨幣。
 一分銀・二朱銀・一朱銀は定位貨幣で安永改鋳以降の鋳造。金貨と通用。

  • 1貫文=1000文
  • 10文(のちに25文)=銭1疋

 一文銭を主とし、ほかに四文銭・十文銭・百文銭も造られた。

金・銀・銭、三貨の両替

 三貨はおのおの体系の異なる貨幣であったから、公・私共に公定相場や市中相場での交換や換算を必要とした。

 こうして見ると気になってくるのが、もしかして重量単位をそのまま通貨単位にしてないか?ってことだ。などと思ってみたら、「金」は確かにそう臭くって、令制では「1斤=16両、1両=24銖(朱)」という形で計るみたい。中国の衡も「斤・両・銖・銭・分」だしな。しかし貫・匁の方は実は逆らしい。古来以来の通貨単位である貫・文が元らしくって、唐の開元通宝1銭の重さを1匁*1として、貫・匁制の重量単位としたようだ。
 ということは、あれかな。朝廷のある西の方は旧来よりの貫・匁ではかる銀制度、武田に端を発するっぽい金制度は東の方に。って感じなんかな? んで、武田の方は金銭ではなく重さとして金を捉えたのが始まりとして、重さの単位がそのまま通貨単位となったんかいな?
 追記:ちょっと調べた。

  • 621年:唐で「開元通宝」が鋳造。また1000枚一組として中央の穴を貫いて紐を通してまとめたため、1000銭を1貫とする。
  • 708年:日本にて、「開元通宝」を参考にして「和同開珎」が日本にて鋳造。通貨単位は文。
  • 958年:日本にて、最後の皇朝銭である「乾元大宝」が鋳造。10世紀末には鋳造されなくなる。
  • 11世紀前後(宋代):宋にて、「開元通宝」を基準とし重量単位「銭」が出来る。また日本では中国の銭貨が流通し始める。こうした中で重量単位「銭」も伝わり、日本では一文の重さであるので文の目方、文目=匁と呼ぶ。また併せて「貫」も重量単位として扱われるようになる。
  • 16世紀:産金地を領有していた武田氏により領内流通を目的とした甲州金(初の額面表示金貨)が鋳造される。

 公銭が鋳造されなくなり、金銀が重量で量られる訳だけど、金と銀で単位が違うのが面白い、な。金の方は甲州金を端緒とするので、少なくともそれまでは貫目・匁で量られる「銀」が広まっていたのかな? そして江戸幕府甲州金の制度を受け入れることによって、「金」制度が日本に広まるのだろうけど、すでに商人たちによって「銀」の足場が固められていた西日本では(つか大坂影響圏では)銀相場が使われ続けたんかな?
 んでもって金の「両」を銀の貫・匁に「替」えるから「両替」というのだな。逆かもしれんが。

*1:「匁」文とメを併せた国字。