『Land of the Samurai』な時代:その2

 さて私自身は和泉の住民なのですが、あえて次はこの時代の大阪、つまり摂津国を見てみます。まあ大阪といっても難波であったり、もしくは「おさか」ないし「をさか」なんだろうけども、別段学問するためにRPGをするわけではないので、雰囲気だけでも。
 で、織田信長の石山攻めとかで大阪は湿地帯だったというのがよく言われているわけなんですが、それにも訳がありまして元々は大阪平野なんてのはありませんでした。あったのは砂嘴とも半島ともいえる上町台地によって瀬戸内海から隔てられた河内湾。それが川の流れによる土砂の堆積で海に開けている部分が細くなり汽水化し河内湖が生まれます。この河内湖は500年ごろにもまだ存在してました。
 そしてその河内湖も大和川、淀川の堆積のために埋まったり、また干拓・開発が進んだりした結果、1000年頃には東大阪市から大東市あたりに今で言う鴻池新田あたりに勿入渕【ないりそのふち】と呼ばれる大きな池を残して大部分が湿地へと代わります。
 じゃあまあどの辺りが湿地なのか。今で言う南方や枚方は南潟や平潟で湿地でしたし、東淀川区中島や都島、福島のように地名に島の着くところは大抵が中世になっても島でした。目で見てわかりやすいのはこちらでしょうか。

 おお、古代河内湾だ*1
 こちらは洪水対策のページでして、今よりも7mほど水位を上げています。まあ見事に上町台地近辺が半島状となって、河内湾が姿を現しておりますね。実際の上町台地というのは、リンク先の半島状の部分の東半分でしょうか。西半分は海に面した海岸部とみるのが良いかとおもいます。
 まあ7mの水位の上昇は大げさなので河内湖以外の海岸線は眉に唾したほうが良いんですが、河内湖に関してはこの当時は大和川が地図中央南部の柏原市あたりから北上していて、八尾市あたりでデルタ地帯を作って河内湾に流れ込んでおり、かなりの水量があったと思われます。また同じ辺りを走っている国道25号線は旧名奈良街道と言い、河内湖南岸沿いを走っていたそうなのでリンク先の青いエリアならびに南は国道25号線と外環状線が交わるあたりまでが河内湖由来の湿地帯候補となるのではないでしょうか。
 上述の過程で生まれた大阪という土地は大体において総じて平べったいもので、坂道というのは極論先ほどからの地図の半島部分の東半分、上町台地にしかないような土地です。
 この台地部分の稜線にそって熊野街道が和歌山まで通っており、台地北端には神武由来の生玉神社が現在の大阪城の位置に鎮座し、その直ぐ南には難波宮難波京から連なる摂津国国府、台地中央半島付け根の部分には聖徳太子四天王寺、台地南端海岸部には摂津国一宮住吉大社が鎮座してます。
 つまりは偉い人の土地ってのは大方にして台地部分にあつまっており、その下方平野部、湿地部に賎民が住んでいたという流れになりそうな雰囲気です。ようはそうした高台にある難波高津宮から仁徳天皇が低地や湿地を見晴らして、煙出てねぇなぁ、みんな貧乏なんだなぁ、とか言ったイメージ?
 追記:しかし1m水位を上げただけで木曾三川流域はすさまじいことになりますね……

*1:おお、古代河内湾だ:ぶっちゃけ今日の日記はこれをやりたかっただけです。