薩摩・大隈は修羅の国

大隅薩摩国
大隅薩摩両国之風俗、違ふ事なし。是も皆死を以て表とし、唯男子は死するを道とすと覚て、五常之道と云ふ事一段外之事と覚へ、仏法といへば死て後之穿鑿に而、生死を可知為となれば、用るに不足と自見而遠り常に主下之作法も有てなく、主ち云名を知て禄を受る士は主とのみ覚へ、百姓は地頭とのみ覚て不礼之行跡擧而、不足言也。武士之戦場に死するも忠義に因て死する処の節を以て善とする工夫なく、唯武士は於戦場に死を致す者とのみ覚へて死するは可論様なし。蓋し泰平之時は主安座而席を正ふ而あるに臣は足を伸し、或は立ちながら主君と問答するの類多し。末代以て是風俗なるべし。