その19:カペー朝フランス王国

 イングランドが産みの苦しみに耐えている中、カール大帝西ローマ帝国は分裂を始めていました。結局はカール大帝個人の力が優れていたということでしょうか。その後継者、ルートヴィヒ1世の時代は何事も無く過ぎましたが、その子らの間で領土問題、といいますか遺産をめぐっての喧嘩が発生したのです。
 そして9世紀半ば、条約が結ばれ帝国は西フランク王国(フランスの母体)、東フランク王国(ドイツの母体)、中部フランク王国イタリア半島北部を基盤)に分けられました。
 この西ローマ帝国の子供らにも、民族大移動の最後の一波は押し寄せてきます。前述の通り、バイキングらによる定住が9世紀半ば頃より始まっており、西フランク王国に対しては、セーヌ川下流域に対して侵略定住を進めていました。
 911年には、彼らの力を恐れた西フランク王シャルルは、ノルマン人首領ロロ【Rollon】に対し公位と、彼らが定住した土地をノルマンディー(ノルマン人の土地)とし、授けました。そうして彼はノルマンディー公となったのです*1。これは名目上は、公位であり西フランク王に臣従する形でしたが、実際にはほとんど自立した状態にありました。
 この西フランク王国も、987年にはカロリング家が絶え、フランク王国よりパリ伯*2に任じられていたカペー家のユーグが推挙され、カペー朝を立てました。
 しかし王とはいえ、その身はパリ伯であり、各地には同様の伯が大勢いたため、その権力はパリ周辺部に留まるものでした。

*1:「ノルマンディー公」正確にはロロはルーアン太守である。そして彼の子ギョームはルーアン伯、そしてその子のリシャールの代である987年、正式にノルマンディー公に任じられる。

*2:「伯」爵位と言うよりも、フランク王国により地方統括のための代官や、日本で言うところの国守に近いか。