1001-01-01から1日間の記事一覧

参考文献

佐藤賢一『英仏百年戦争』(中央公論新社) 後半のアンジュー帝国の下りなどは、ほとんど引き写し、つまりはパクっています。 インターネットで検索できるページ沢山。 いや、本当に。ほとんど色んなページのツギハギ状態です。 他にも色々。

番外:フランス語

フランク王国では古フランス語が成立しましたが、これはイル・ド・フランス地方、要はパリ近郊の方言でしかありませんでした。では、他の地域ではどうだったかというと、ゲルマン語からの影響度合いにおいて各地各地の方言、というよりも最早、言語が成立し…

その30:その後の転落

しかしこのジャンはその性、凶悪な人物で家臣たちの信望も薄い人物でした。 これにつけこんだのがフランス王フィリップ2世で、1202年、アンジュー帝国への侵攻を開始します。しかも有力諸侯は皆、フランス王家に鞍替えすると言う始末で、アキテーヌ公領を残…

その29:その後の下り坂

こうした隆盛はひとえに沢山の子供がいたからだとも言われています。彼はフランス王家を始め、周辺国家の多くに子供たちを縁付かせ、その安定を図っていました。 しかしそれも相続となると逆に問題としかなりませんでした。 1169年に作成された遺言書によれ…

その28:その後の上り坂

紆余曲折ありますが、エティエンヌは王位を守りつづけます*1。 しかし彼もまた嫡男を失っており、1153年にマチルドの息子アンリ【Henri】を後継者と指名し、1154年死亡します。こうしてイングランド王の座はアンリの下に移りました。王朝は男系で見るのが多…

その27:カドフェルな時代

マチルドは1128年、エニシダの枝を髪飾りとするなど伊達男“美男伯”としられたアンジュー伯ジェフロワと結婚します。このエニシダの髪飾りは、後に家名としても通用するほど有名だったようです。 遂に1135年12月、アンリが死去し、ノルマンディー公とアングル…

その26:統一

再びアングルテールに目を向けますと、1100年、過酷な政治を続けていたギョーム2世が狩猟中に何者かの矢で殺されてしまいます。その後を継いだのは、“征服公”ギョームの末子アンリ【Henri】でした。そしてアンリの野望は田舎の一小国それに留まらず、1106年…

その25:十字軍

その彼も1087年、フランス王との交戦中に死亡します。そして彼の有する土地は息子らに分配されました。まず長男ロベール【Robert】には、やはり一番重要な父祖伝来の地であるノルマンディー公の地位が譲られます。そしてその弟ギョーム【Guillaume】にアング…

その24:アングルテール経営

ギョーム自身は辺境アングルテールの地を踏んだのは、10度にも及ばぬ程の回数で、その本拠地は依然としてノルマンディー公国におき、周辺諸侯と戦いを続けます。そしてアングルテールには代官を置き、大陸風の経営を苛烈に行いました。古来よりの慣習を尊重…

その23:征服公

当時、ノルマンディー公領では、1035年、“華麗公”ロベール【Robert le Magnifique】が死に、その後を継いだのは庶子ギョーム【Guillaume le Bâtard】でした。彼はこの年、いまだ8歳。当然のように、公位を狙う者が出現し、長年の騒乱の末、1050年にノルマン…

その22:王の帰還

しかしクヌート大王は1035年、41歳という若さで死亡します。エマにはエセルレッド王との間に子供がいましたが、クヌート大王との間にも子供がいたため省みられませんでした。 そして1042年、クヌート大王の子らが死に絶えノルマンディの僧院よりエドワード王…

その21:北海大王

そのエセルレッド王の統治下のイングランドでは、再びデーン人による襲撃が激化していました。まず一度、エセルレッド王はデンマーク王スウェインとの戦争で勝ち負けを繰り返した挙句、1013年にイングランドは征服されました。エセルレッド王は妻の実家を頼…

その20:ノルマンディー公

北欧のサガによれば“美髪王”ハラルド【】の家来に、「騒音の」エイステイン【】の子、“メーレ湖のヤール*1”ラグンヴァルド【Ragnvalds Möre-Jarl】がいました。そのラグンヴァルドの子ロールヴは、馬に乗れない程の立派な体格であったため、“徒歩の”ロールヴ…

その19:カペー朝フランス王国

イングランドが産みの苦しみに耐えている中、カール大帝の西ローマ帝国は分裂を始めていました。結局はカール大帝個人の力が優れていたということでしょうか。その後継者、ルートヴィヒ1世の時代は何事も無く過ぎましたが、その子らの間で領土問題、といいま…

その18:デーン人

さてアングロ族【Angle】とジュート族【Jute】は民族大移動でやって来る以前、ユトランド半島【Jutland】に住んでいました。『ゲルマーニア』を見ても解る通り、アングル族【Angles】は、民族大移動前は南ユトランドあたりに棲息していましたし、ユトランド…

その17:イングランド統一

ブリタニアにて、そのカール大帝の力を借りたのが、マーシア王のオファでした。彼はカール大帝と婚姻関係を結び、通商条約などを結び力を得、エセックスやサセックスの王家を滅ぼし、ケントとイースト・アングリアの王家をも一時断絶に追い込みます。そして…

その16:ローラン節

カール・マルテルの勝利でカロリング家は事実上の支配者となりましたが、その子、小ピピンは751年、こんどは本当にメロヴィング家を廃しました。そしてカロリング朝を立て、自ら王位に立ち、名実ともに支配者となったのです。 そのピピンの子がカール1世、す…

その15:カロリング朝フランク王国

それに対し732年、ツール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍の前に立ちはだかり、勝利したのがフランク王国の宮宰カールでした。ここに西からのイスラムの侵略は閉ざされることになります。この勝利で名声を更に高め、「鉄槌(マルテル)」の名を贈られたカー…

その14:インシャラー

ムハンマドの死後もイスラムの拡大は続きます。638年にエルサレムは陥落し、651年にはササン朝ペルシャを滅ぼします。そして東ローマからはエジプト属州やシリア属州を切り取りました。この後、後継者争いで紆余曲折があるのですが、シリア総督であったウマ…

その13:ムハンマド

ローマ帝国旧領北方にこうした動きのある中、一方で東方では新しい力が起こっていました。7世紀前半のアラビア半島にてムハンマドが創始した新興宗教、イスラム教がそれです。 彼はメッカ近郊で唯一神の声を聞き勧誘活動を始めましたが、彼らに対する弾圧は…

その12:七王国時代

しかしこの勝利の影響も長くは続きません。ゲルマン人に勝利を続けるブリトン人は仲間割れを始め、内部崩壊に陥り、伝説では6世紀半ばアーサー王は庶子であるモードレッドとの戦いに敗れ、死亡します(Blind Guardianの『Modred's Song』など)。〈カリスマ…

その11:燃えろ、アーサー

さてブリタニアでは各都市が分立し個別に活動していましたが、指導者(龍の頭【Pendragon】)を選び出すなど、蛮族の王国の成立に対抗するため、それまで分立していたブリトン人の諸王国に統合の気配が芽生え始めます。 そしてそこに現れたのが最後のローマ…

その10:メロヴィング朝フランク王国

こうした蛮族の王国が次々に成立していく最中、西ローマ帝国は遂に476年、滅亡します。傭兵隊長オドアケルによって、ロムルス=アウグストゥルス帝が廃位されたのです。オドアケルは次の皇帝を立てることなく、西ローマ帝国の帝位を東ローマ皇帝に返上し、自…

その9:ゲルマン諸王国

こうしてホノリウス帝は西ローマ帝国の存続を図りましたが、406年にはヴァンダル族がガッリアに侵入、その後、エスパニアを通りアフリカにヴァンダル王国を建国、410年にはアラリックに率いられた西ゴート族はローマを占領し、略奪の末に南ガッリア及びエス…

その8:ブリタニア放棄

しかしディヴィド王国は勢力を拡大し、コーンウォール半島にまで進出します。またゲルマン民族らの侵攻も受けて、結局、コーンウォール半島に住んでいたブリトン人の多くは今度は大陸に逃れることになり、そうしてその土地もまたブリトン人の土地、ブリタニ…

その7:蛮族の陰謀

時を前後して367年、ブリタニアではピクト人たちが壁を越え、大規模な攻勢を仕掛け始めます。 またほぼ同時期、アイルランドの(ケルト系)スコット族が海を渡りブリタニアへと移住を始めます。北へと移った集団はダルリアダという王国を築き、ピクト人との…

その6:ゲルマン民族大移動

こうしたフン族による襲撃のため、西ゴート族はローマ帝国内に定住することを許されました。しかし搾取に怒り、彼らは反乱を起こします。そして378年、ローマ軍は東西ゴート族との決戦に大敗北を喫します。これがゲルマン民族の大移動の始まりです。この後、…

その5:匈奴

モンゴルに匈奴という民族がいました。月氏、テュルク族を追い、モンゴルを制圧し、古くより中華を苦しめた民族です。しかし漢の武帝の時代ともなると、後継争いで内紛が絶えず起こるようになります。紀元前54年には東西の匈奴に分かれ、西匈奴は漢の力を借…

その4:ローマ混乱

2世紀末には五賢帝時代も去り、ローマは再び混乱に陥ります。それも3世紀をほぼ丸々かけての混乱です。 五賢帝時代は96〜180年まで、およそ80年続きます。その名前から無論、5人の皇帝がいたわけですが、最初のネルヴァは2年しか統治していませんので、実質4…

その3:ブリタニア属州の外

こうしてローマ人に圧迫され逃げ出す者はブリタニアの西や北へと移動します。中でも西へ、すなわちウェールズに逃げのびたブリトン人は、自らをカムリ人【Cymry】とも名乗るようになりました。このためこの地はカンブリア【Cambria】とも呼ばれています。 さ…