その30:その後の転落

 しかしこのジャンはその性、凶悪な人物で家臣たちの信望も薄い人物でした。
 これにつけこんだのがフランス王フィリップ2世で、1202年、アンジュー帝国への侵攻を開始します。しかも有力諸侯は皆、フランス王家に鞍替えすると言う始末で、アキテーヌ公領を残して次々とその所領を失いました。
 彼が負けたのはフランス王の権力が意味をなしたが為でした。アンジュー帝国とは言え、結局はフランス王に臣従している立場であったからです。フランス王家の権威の傘の下にあったからこそ、有力諸侯はその臣従先を王家に移したのです。
 そして彼にはフランス王の権力の及ばぬ所領がありました。つまりイングランドです。彼は海を渡り、イングランド王として居座ります。こうして海外領土の大半を失ったことから、日本では“失地王”ジョン【John Lackland】などと勘違いされるはめに陥ります*1
 しかしまだ彼も彼の子らもイングランド人ではなくフランス人であり、旧領をあきらめたわけではありませんでした。

*1:「ジョン」1215年には貴族たちに強制されてマグナ・カルタを承認させられ、王権の制限、貴族の特権の確認がなされるが、今までの流れを見るにそれは当然であろう。1066年のノルマン・コンクェスト以来、およそ150年に渡って実質イングランドには王はおらず、貴族たちが「王の会議」の下で統治していたのである。この状況下でいきなり「私が王だ」といつかれても迷惑な話である。