その29:その後の下り坂

 こうした隆盛はひとえに沢山の子供がいたからだとも言われています。彼はフランス王家を始め、周辺国家の多くに子供たちを縁付かせ、その安定を図っていました。
 しかしそれも相続となると逆に問題としかなりませんでした。
 1169年に作成された遺言書によれば、長男の若アンリ【Henri le Jeune】には父祖伝来のノルマンディー公領、アンジュー伯領、メーヌ伯領、トゥーレーヌ公領、イングランド王国を、次男のリシャール【Richard】には妻の相続地アキテーヌ公領を、三男のジョフロワ【】はブルターニュに婿入りさせているから問題なし、と、そして四男ジャンには土地は見送られて、彼は“欠地王子”ジャン【Jean Sans Terre】と呼ばれました。
 この後、長男である若アンリが自分に臣従するように兄弟たちに求めますが、母方の家を継いだリシャールはこれを拒否します。そして長男・三男の連合軍と次男リシャールとの戦争が勃発し、その兄弟戦争の末、若アンリが急死しました。これによって若アンリが継ぐ予定の諸領はみなリシャールに移ります。
 こうなってジャンも領土が欲しいと主張しました。アンリもそれは当然とリシャールに、父祖伝来の地を継ぐのだからアキテーヌ公領をジャンに譲るよう言いますが、リシャールはこれも拒否します。
 こうして今度は親子戦争が勃発します。リシャールは、カルヴァドスの銘柄にもなった【Cœur de Lion】、英語で言うなら【Lion-Hearted】、即ち“獅子心公”と異名をとるほどの戦上手ですから、父に怯むことなく戦争を続け、1189年アンリを打ち負かし、その戦後アンリは病没します。ここにアンジュー帝国は“獅子心公”リシャールの下に復活しました。
 こうして再び脅威となったアンジュー帝国に対し、フランス王家は策謀を続け、家臣団の分離を計り、アキテーヌ公領で反乱が勃発します。この反乱鎮圧の最中、受けた矢傷が悪化して、リシャールは落命します。
 結局、すべてを引き継いだのは“欠地王子”ジャンでした。