その28:その後の上り坂

 紆余曲折ありますが、エティエンヌは王位を守りつづけます*1
 しかし彼もまた嫡男を失っており、1153年にマチルドの息子アンリ【Henri】を後継者と指名し、1154年死亡します。こうしてイングランド王の座はアンリの下に移りました。王朝は男系で見るのが多いのか、ここでイングランドでは王朝名が変わります。エティエンヌまでをノルマン王朝と呼び、アンリ以降をアンリの父の家名から取りエニシダ【planta genista】の王朝と呼びます。
 そうプランタジネット王朝の始まりです。
 こうして再び“征服公”ギョームの旧領が復活しました、と言っていいのでしょうか。いや、話はそれに留まりません。アンリは1152年にアリエノール・ダキテーヌと結婚していました。このアリエノール・ダキテーヌの父もまた後継者を失っており、アリエノールがフランス南部を占めるアキテーヌ公領の後継者でした。
 アンリは父からアンジュー伯領、メーヌ伯領、トゥーレーヌ公領を、母からノルマンディー公領を、母の従兄弟からはイングランド王国を、妻の実家からはアキテーヌ公領を相続します。
 またイングランドではウェールズの有力者と友好関係を築き封臣として迎え、アイルランドの諸侯の大部分を軍門に下りらせます。大陸西では三男坊のジョフロワをブルターニュ公の娘と結婚させ、そのまま息子をブルターニュ公に据え、一方南ではトゥールーズ伯がアンリの臣下となります。
 歴史にアンジュー帝国と呼ばれる、今で言うフランスの西半分およびイギリスのほぼ全土を支配下に治めた一大国家の誕生です*2

*1:「紆余曲折」途中、マチルドの捕虜となり幽閉されるも、捕虜交換で釈放。その後、マチルド軍に勝利し王位を確かなものにする。

*2:「一大国家の誕生」よくヘンリー2世はフランスに広大な領土を持つ、と言われるが、明らかに逆である。アンジュー伯が領土の端っこにイングランド王国を持っていたと言うべきだろう。彼の居城はフランスであったし、彼は歴としてフランス人であった。