その15:カロリング朝フランク王国

 それに対し732年、ツール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍の前に立ちはだかり、勝利したのがフランク王国の宮宰カールでした。ここに西からのイスラムの侵略は閉ざされることになります。この勝利で名声を更に高め、「鉄槌(マルテル)」の名を贈られたカール・マルテルは、事実上フランク王国の支配者となります。
 では、フランク王国の本来の統治者であるメロヴィング家はどうしたのでしょうか。
 クロービスの死後のフランク王国は、ゲルマン法にのっとり4人の王子に分割統治されることになりました。最初こそ、それでうまくいっていたのですが、各王家の戦いが起こるようになり、6世紀末には3つの小国に分かれている状態でした。これはメロヴィング家の勢いをそぎ、地方豪族の力も台頭し始め、そしてそれぞれの小国に宮宰がたつ結果を生んでいました。
 その争いに勝利したのが、宮宰の1人、カロリング家【Karolinger】の大ピピンで、彼は各国の宮宰を破り、全フランクの実験を握ります。そしてそのピピン庶子こそがカール・マルテルなのです。