『Fiasco in A Box』

6月中旬に開催されたOrigins Game Fair 2018に先駆けて、Bully Pulpit Gamesから『フィアスコ』の第2版が開発中であり、そのデモを大会で行うとの発表が飛び込んできたのはちょうど2か月前、5月30日の話である(時差はあるが)。
そうもう2か月もたち、Origins会場での写真やBully Pulpit Gamesからの情報提供もすでになされ、また友人にして『スケルトンズ』の翻訳者である塚越さんのTwitterなどでの報告もあって、段々と様子が見えてきたので、ひとまずの情報のまとめや自分なりの感想をここに記してみることにする。
さてそこでまず最初に述べておきたいのは、実は『フィアスコ』というのはもう10年ほど前にでたゲームということだ。日本では紆余曲折あって、出版されたのはこれまたちょうど1年前の2017年7月30日のことであったが、そもそもの英語版が出版されたのは2009年のことである。何が言いたいのかというと、日本では新しいゲーム/システムとして受け入れられたと思うのだが、実のところはもう古くなっていてアップデートの必要性を作者は感じているのではないか、ということだろう。
特に何も知らない外野としては、ゲームにおける協調性の重要さがルール部分に書かれるのではないかな、と読んでいる。つまり『フィアスコ』では「デザイナーズ・ノート」に書かれていた、個人的には一番重要だと思われる個所をルールとして明記するのではないかな、というのが第一の感想である。

ダイスレス


さて、Originsでのプレイ風景(3枚目の画像)を見てみると、ダイスがない。それだけでなくポジティブやネガティブの〔なりゆき〕や、様々な要素、果てはキャラクタの名前に至るまでカード化されている。
実は、そういったプレイ風景は昨年夏に開催されたGenConに行った折、Bully Pulpit Gamesの方々に挨拶した際に見かけていたのだが、それが新しいシステムだとは思いもしなかった。GenConのようなコンベンションや体験卓での運営手法の一つだと捉えていたのだが、実はそれが新システムであったと言う訳である。
ただこの手法が体験卓では役に立たないかというとそうではなくて、今年2018年のTGFFで友人であるはやかわさんが『フィアスコ』の3時間卓や1時間卓を開催してくれたが、その際にはやはり事前に要素をカード化されていた、とのことなので、公式プレイセットには掲載されている即席セットアップをカード化しておく、というのは、時間が限られた導入の際には有効に役立つのではないかと思われる。
あわせてBully Pulpit Gamesの投稿記事を読むに、(今でも実現されていると思うが)同じプレイセットであっても何度でも遊べるようにし、時間も迅速化して、今では制限のない想像力に枠をはめて理解しやすいようにする、つまりは私が感じた範囲では初心者が遊びやすいシステムにする、と感じられた。

フィアスコ2版

逆に言うと、経験者やプレイの幅がある人間には狭苦しく感じられるかもしれない、というのが正直な感想である。少なくとも私は、インスト用には良いが、このシステムだけ延々とは遊びたくないと感じたし、またプレイセットを考えるたびにカードを用意する面倒くささに想像だけで辟易したので、第一の印象としては「『フィアスコ』の後継である『フィアスコ2版』を名乗るのではなくって、『フィアスコ』のスピンオフっぽさのある『さくさくRPGフィアスコ』みたいな名前であれば、個人的には納得できるかなぁと思った。そうすればその『さくさくRPGフィアスコ』には、個人的に近づかなければ良い、ないしは事前に心構えしておけば良いだけだからだ。

複合化

しかし、色々とカード化すると異なるプレイセットの要素の混ぜ合わせが容易になる、というのは、1つの転換点だと思う。紙上のリストでも極論すれば同じ処理なのかもしれないが、それでも遊ぶ現場で複数のプレイセットのカードをシャッフルして、要素の新しい組み合わせを作ることができる、というのは面白い試みだと思う。

2版予想、つまり結論

無論、【転落】や【残響】において、ダイスに頼らない手段が提供されるかもしれないし、やはり自分の思い通りにはならないシステムは維持されて、従来通りキャラクタの運勢は天に任せざるを得ないゲームになるかも知れないが、結局のところはゲームの遊び方の説明部分には「人の話を聞く」「つまらないと思っても自分の案を言ってみる」「受け入れられない設定があったらみんなに伝えよう」といったストーリーテリングのゲームでよく明記されていることを改めて記載して、その上で従来のプレイセットでの遊び方についても説明しつつ、インスト用として基本プレイセットの即席セットアップをカード化したものを付けた商品構成になるのではないかな、と、そう現在では想像している。