その2:古代ローマ帝国
その後ローマは世界国家となり、43年にクラウディウス帝によってブリタニア征服が始まります。サトクリフの『闇の女王にささげる歌』は丁度、この頃の物語で、61年のイケニ族女王ブーティカによる反乱を書いたものです。あと、あしべゆうほの『クリスタル・ドラゴン』の3巻で書かれた反乱もこの話ですね。
一方でこの頃のローマはと言うと、クラウディウス帝が54年に死亡し、ネロ帝の時代です。この何年か後のウェスパシアヌス帝の時代を舞台にした小説として、リンゼイ・デイヴィスの『密偵ファルコ』シリーズがありますが、主人公ファルコはブリタニア属州へ兵役に出ていた経歴を持っており、また作中でもブリタニアを旅しています。
さて話を戻して、この反乱でブーディカはロンドンを焼き討ちしたということで、もう既にこの頃にはロンドンがありました。この頃のロンドンはラテン語でロンディニウム【Londinium】と呼ばれてました*1。しかしこの反乱もローマ軍によって鎮圧され、1世紀末にはブリタニアの大半が制圧されます。
その3:ブリタニア属州の外
その4:ローマ混乱
2世紀末には五賢帝時代も去り、ローマは再び混乱に陥ります。それも3世紀をほぼ丸々かけての混乱です。
五賢帝時代は96〜180年まで、およそ80年続きます。その名前から無論、5人の皇帝がいたわけですが、最初のネルヴァは2年しか統治していませんので、実質4人で80年を統治したことになります。ところが五賢帝時代も終わると、内乱期(193年)で2人の皇帝、セウェルス朝(193〜235年)で5人の皇帝、そして軍人皇帝時代(235〜284年)となると50年で26人の皇帝が入り乱れる結果となります。
この混乱は284年になってディオクレティアヌス帝により収められることになりますが、ディオクレティアヌスは帝国東西に二分し、またそれぞれに正副の皇帝を、合計4人の皇帝による統治を打ち立てます。彼の退位とともに各皇帝の間にまたもや混乱が起こりますが、324年、コンスタンティヌス帝により再びローマは統一されました。
しかしその平和も長くは続きません。
その5:匈奴
モンゴルに匈奴という民族がいました。月氏、テュルク族を追い、モンゴルを制圧し、古くより中華を苦しめた民族です。しかし漢の武帝の時代ともなると、後継争いで内紛が絶えず起こるようになります。紀元前54年には東西の匈奴に分かれ、西匈奴は漢の力を借りた東匈奴に倒されました。そして48年、今度は東匈奴が南北に分かれます。またもや親漢派の南匈奴が北匈奴を追い、100年頃には反漢派である北匈奴は南匈奴と鮮卑族に圧迫されて、西に流れていきます。ところでこの匈奴、「キョウド」と読んでいると思いますが、古中国語では「フンヌ」と読みます。そう。その名称の類似性から、フン族の祖集団とする説があります。
出自はともあれフン族は4世紀後半、カスピ海北方経由でドン川を東から西へと越え、375年にはゲルマン族中最東端の東ゴート族を征服します。このフン族に関連した物語としてあげられるのは「ニーベルンゲン伝説」でしょう。その中でブルグント族がフン族と戦う場面があります。事実、437年にはライン河畔にいたブルグント族がフン族に敗北しています。
その6:ゲルマン民族大移動
こうしたフン族による襲撃のため、西ゴート族はローマ帝国内に定住することを許されました。しかし搾取に怒り、彼らは反乱を起こします。そして378年、ローマ軍は東西ゴート族との決戦に大敗北を喫します。これがゲルマン民族の大移動の始まりです。この後、ゴート族はテオドシウス帝に破れるのですが、395年にテオドシウス帝が死亡し、2人の息子のために分割相続され東西に分かれたローマ帝国は、西ゴート族への給金支払いを停止します。それに怒った西ゴート族は国王アラリックを先頭に東ローマ帝国のガッリアを略奪するや、400年頃にはイタリアに向けて移動し始めます。
さてブリテン島に焦点を当てたとき、まず始めに主役となるゲルマン民族はやはりアングル族、サクソン族、ジュート族になります。彼らが移動し始めたとき、ガッリアは既に東西のゴート族による略奪を受けており、またヴァンダル族やアラニ族も活躍していました。それゆえ彼らは西へ西へと移動し、それ以前からも海賊行為によりブリタニアの存在は知っていましたが、本格的な移動を始めたのです。
この時、ブリタニアで推挙されたコンスタンティヌス3世が、ヒスパニア制圧のためにブリタニア駐在の軍団兵を大陸に移動させていたため、ブリタニアを守るものはいませんでした。
その8:ブリタニア放棄
しかしディヴィド王国は勢力を拡大し、コーンウォール半島にまで進出します。またゲルマン民族らの侵攻も受けて、結局、コーンウォール半島に住んでいたブリトン人の多くは今度は大陸に逃れることになり、そうしてその土地もまたブリトン人の土地、ブリタニアと呼ばれるようになりました。そして本来のブリタニアは大ブリタニア(ブリタニア・マヨール、グラン・ブルターニュ、グレート・ブリテン。)と、大陸のブリタニアは小ブリタニア(ブリタニア・ミノール)と呼び分けられます。この小ブリタニアは、現在ブルターニュと呼ばれています*1。
そして410年、西ローマのホノリウス帝は「ホノリウス勅裁書」をブリタニアの各都市に送ります。これはブリタニアに自らを守る権利を委譲するというものです。それだけを聞くと良く聞こえるかもしれませんが、それはすなわちローマはブルタニアを放棄するということであり、ブリタニアは、ローマ化された族長やあるいは帰化したローマ貴族たちを支配者として、各自それぞれに自立しなくてはならなくなります。
その9:ゲルマン諸王国
こうしてホノリウス帝は西ローマ帝国の存続を図りましたが、406年にはヴァンダル族がガッリアに侵入、その後、エスパニアを通りアフリカにヴァンダル王国を建国、410年にはアラリックに率いられた西ゴート族はローマを占領し、略奪の末に南ガッリア及びエスパニアに西ゴート王国を建国、などという風に、西ローマ帝国領内にゲルマン民族の王国が群雄するという状態で、また国内政治においてもゲルマン人の傭兵隊長が権力を持ち始め、すでに帝国の体をなしていませんでした。
さてブリタニアでは、ローマの支配を離れてからは国家組織と呼べるものは無くなり、領主たちがそれぞれ領地を勝手に統治し、小競り合いを繰り返していました。5世紀中頃にはブリトン系王国の王ボルティゲルンはピクト族に対する防衛に、ジュート族傭兵を雇ってケントに定住させます。蛮族に対し蛮族を当てるという、毒をもって毒を制する策で、最初は功をなしたのですが、ジュート族の王ヘンギストはボルディゲルンを殺し、ケント王国【Kent】を建国します。
またサクソン族は底の浅い船を使って河川に沿って内地に侵入し、429年にはピクト人と連合して戦い、5世紀中頃にはエセックス王国【Essex】*1・サセックス王国【Sussex】*2・ウェセックス王国【Wessex】*3のサクソンの三王国が建設されます。
アングル族もまた幾つかの国を建国し、それは後にイースト・アングリア王国【East Anglia】*4、マーシア王国【Mercia】*5、ノーサンブリア王国【Northumbria】*6に収束されていきます。
- 地図
- http://www.britannia.com/history/600.html
- この地図で言うバーニシア【Bernicia】、デイアラ【Deira】の両王国がノーサンブリア王国にあたる。
- http://www.britannia.com/history/600.html
その10:メロヴィング朝フランク王国
こうした蛮族の王国が次々に成立していく最中、西ローマ帝国は遂に476年、滅亡します。傭兵隊長オドアケルによって、ロムルス=アウグストゥルス帝が廃位されたのです。オドアケルは次の皇帝を立てることなく、西ローマ帝国の帝位を東ローマ皇帝に返上し、自身がイタリアのパトリキとして君臨しました。
しかしガッリアでも新たな動きがありました。481年、メロヴィング家【Merowinger】のクロービスがフランク族の支族を統一し、フランク王国を建国したのが始まりです。彼はその後、ゲルマン諸族を攻撃し、中でも西ゴート族をエスパニアに追い払い、フランク王国は全ガッリアの覇者となりました。
ただローマ無く、ゲルマン民族の支配下となっても、ローマ文化自体は完全に消えるということはなく残りつづけます。文字もローマ字が用いられるようになります。そもそもローマの属州であった諸地域においては、支配者層がゲルマン民族となったとは言え、被支配者層はケルト人であり、ローマ人であったのですから、当然といえば当然でしょう*1。言語おいてすら、基本語彙や戦争に関するものなどにこそゲルマン語を残しますが、ラテン語を話すようになり始めます。こうしたラテン語が、土地の距離や教育の有無により、様々な形でゲルマン語に引きずられロマンス諸語を形成します。そしてフランク王国では古フランス語が成立しました*2。
*1:「ローマの属州であった諸地域」そしてローマ属州でなかった諸地域、つまり今のドイツやスカンジナビア半島などではゲルマン語派の言語が残ります。
*2:「古フランス語」id:Ayukata:10010101#p31「番外:フランス語」を参照。
その11:燃えろ、アーサー
さてブリタニアでは各都市が分立し個別に活動していましたが、指導者(龍の頭【Pendragon】)を選び出すなど、蛮族の王国の成立に対抗するため、それまで分立していたブリトン人の諸王国に統合の気配が芽生え始めます。
そしてそこに現れたのが最後のローマ人、アウレリウス・アンブロシウスと言われています。5世紀後半、彼はブリトン人を統合し、ゲルマン人の侵攻を食い止めます。このアンブロシウスの弟がウーサーであり、ウーサーの子供がアーサー王だと言う伝承もありますが、また一方でアンブロシウスこそがアーサー王だと見る説もあります。サトクリフの『ともしびをかかげて』はアンブロシウスをアーサー王と見立て、そこでアーサー王は500年頃、ペイドン山にてウェセックス王を破り、ゲルマン人を南部に追いやります。
この頃を舞台とした作品は多く、今度、創土社から再販されるゲームブック『グレイル・クエスト』シリーズもこの頃が舞台となりますし、無論のことケイオシアムの『Pendragon』もこの時代です。モンティ・パイソンの『モンティ・パイソンとホーリーグレイル』も忘れてはならない名作ですね。
その12:七王国時代
しかしこの勝利の影響も長くは続きません。ゲルマン人に勝利を続けるブリトン人は仲間割れを始め、内部崩壊に陥り、伝説では6世紀半ばアーサー王は庶子であるモードレッドとの戦いに敗れ、死亡します(Blind Guardianの『Modred's Song』など)。〈カリスマティック・リーダーシップ〉なロッカーボーイを失ったブリトン人は以降統一を欠くことになり、それ以降、ゲルマン人による侵攻が再び始まり、ブリトン人は北(ピクトランド)へ西(カンブリア)へ、そして大陸(ブルターニュ)へと逃げていきます。
こうして597年、山岳部であるカンブリア地方にカムリ人王国を、他に北西部やコーンウォールなどに王国を残しますが、それ以外のブリタニアからはブリトン人は駆逐され、ゲルマン人の王国が再び成立していました。そして中でも大きかったのが前述の七つの王国だったので、これよりを七王国時代と呼び、ゲルマン人同士の戦国時代に入ります。
その13:ムハンマド
ローマ帝国旧領北方にこうした動きのある中、一方で東方では新しい力が起こっていました。7世紀前半のアラビア半島にてムハンマドが創始した新興宗教、イスラム教がそれです。
彼はメッカ近郊で唯一神の声を聞き勧誘活動を始めましたが、彼らに対する弾圧は強く、622年メッカを捨てメディナへ移住します。そしてそこで力を手にします。宗教としてではありません。政治的な力を手に入れるのです。
彼らはメディナでは新参者でしたが、逆にそのため旧来の部族間抗争には中立の立場でいれました。イスラム教はその仲裁者としての役割を果たし始め、そして部族が異なるから争うのであって、ともにイスラム教徒となることで同胞となれば争う必要が無い、と、信者を爆発的に増やします。それは630年にはメッカを征服、631年にはアラビア半島を統一する勢いでした。
その15:カロリング朝フランク王国
それに対し732年、ツール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍の前に立ちはだかり、勝利したのがフランク王国の宮宰カールでした。ここに西からのイスラムの侵略は閉ざされることになります。この勝利で名声を更に高め、「鉄槌(マルテル)」の名を贈られたカール・マルテルは、事実上フランク王国の支配者となります。
では、フランク王国の本来の統治者であるメロヴィング家はどうしたのでしょうか。
クロービスの死後のフランク王国は、ゲルマン法にのっとり4人の王子に分割統治されることになりました。最初こそ、それでうまくいっていたのですが、各王家の戦いが起こるようになり、6世紀末には3つの小国に分かれている状態でした。これはメロヴィング家の勢いをそぎ、地方豪族の力も台頭し始め、そしてそれぞれの小国に宮宰がたつ結果を生んでいました。
その争いに勝利したのが、宮宰の1人、カロリング家【Karolinger】の大ピピンで、彼は各国の宮宰を破り、全フランクの実験を握ります。そしてそのピピンの庶子こそがカール・マルテルなのです。
その16:ローラン節
カール・マルテルの勝利でカロリング家は事実上の支配者となりましたが、その子、小ピピンは751年、こんどは本当にメロヴィング家を廃しました。そしてカロリング朝を立て、自ら王位に立ち、名実ともに支配者となったのです。
そのピピンの子がカール1世、すなわちカール大帝【Charlemagne】【Karl der Grosse】【Charles the Great】です。彼は各地への遠征に勝利を続け、旧来のフランク王国の領土だけではなく、各ゲルマン民族国家を平らげました。
北イタリアのランゴバルド王国を征服し、ザクセン族やバイエルン族を平らげ、アヴァール王国を滅ぼし、そして先々で異教徒たちをキリスト教に改宗させました。また改宗だけではありません。彼はイベリア半島にも遠征し、イスラム勢力を後退させるという形でも、ローマ・キリスト教文明圏を広げました。
このイベリア半島遠征の帰途、ピレネー山中でバスク族の攻撃を受けますが、この時、戦死した勇者ローランの物語は後に一大叙事詩として謳われ、『ローランの歌』となりました。
こうした新たな領土を獲得し、ブリタニアや南イタリア、エスパニアの一部を除く西欧のほぼ全域を支配下に治め、彼は800年のクリスマス、ローマ教皇より西ローマ皇帝の帝冠を授けられます。
彼の物語はアーサー王同様に伝説と化し、今では『シャルルマーニュ伝説』として伝わっていますが、文庫で出ていた『シャルルマーニュ伝説』は現代教養文庫ということで社会思想社亡き今、古本屋を捜し求めるか、他社の文庫でない版を探すしかないと思います。
その17:イングランド統一
ブリタニアにて、そのカール大帝の力を借りたのが、マーシア王のオファでした。彼はカール大帝と婚姻関係を結び、通商条約などを結び力を得、エセックスやサセックスの王家を滅ぼし、ケントとイースト・アングリアの王家をも一時断絶に追い込みます。そして彼は「全アングル人の王」と名乗りをあげました。これよりブリタニアはアングル人の土地(イングランド)となります。
そしてこのオファの死亡後、イングランドを追放され、カール大帝の庇護下にあったサクソン人であるウェセックスのエグバードが、802年にウェセックス王に着き、829年、全イングランドを統一しイングランド王国が成立、彼はアングロ・サクソンの王となりました。
しかし彼の覇権も西には及ばず、そこには歴とカリム人国家がありました。王は防塁を築き、そこを国境としました。そしてそれより西の地を【wealh】と、アングロ・サクソン語にて「よそ者」と名付けます。また北に視線を転じれば、ピクト人の土地とスコット人の土地がありました。846年には、スコット人国家がピクト人国家に勝利し、847年にスコット王とピクト女王の結婚が成立、スコット人・ピクト人の連合王国が成立しました。こうしてピクト族の地(ピクトランド)はスコット族の地(スコットランド)になるのです。
その18:デーン人
さてアングロ族【Angle】とジュート族【Jute】は民族大移動でやって来る以前、ユトランド半島【Jutland】に住んでいました。『ゲルマーニア』を見ても解る通り、アングル族【Angles】は、民族大移動前は南ユトランドあたりに棲息していましたし、ユトランドという名称自体、ジュート族の土地の意なのですから、ジュート族【Jutes】に到っては当然、ユトランド半島出身でした。
彼らの移動後、その地に居たのはデーン人でした。その名前は今もユトランド半島の大部を領土とするデンマークとして残っています。
このデーン人の王家の国家による、すなわちバイキングによる略奪行為が、8世紀後半頃より活発になっていました。それはイングランドに対しても同様でした。そして9世紀半ばにもなると、ゲルマン民族大移動の最後の一波として、その方向性は略奪から定住へと向けらます。遂に856年、デーン人たちはイースト・アングリアで越冬し、翌年ノーサンブリアの首都ヨークが征服され、ここはデーン人たちの拠点となります。
そして更にデーン人の領土は広がりを始めていました。そこでウェセックス王アルフレッドは871年、平和を買い取るため金を支払い、デーン人の矛先がエセックスに向いている間に勢力を整えます。878年、エディントンの戦いでデーン人破ったアルフレッド大王は、「ウェドモアの協約」を結び、その中でデーン王を改宗させ、自らの養子にし、こうしてデーン人の南下を食い止めることに成功しました。さらに886年にはアルフレッド大王によってロンドンが奪還され、イングランドの北東部(イングランドの約半分の面積)が「デーン・ロウ【Dane Law】」、すなわち「デーン人の土地」として確定されました。
ただデーン人たちはその慣習法などは残したものの、徐々に定住・農民化していきアングロ・サクソン系王国の支配下に組み込まれていきます。
その19:カペー朝フランス王国
イングランドが産みの苦しみに耐えている中、カール大帝の西ローマ帝国は分裂を始めていました。結局はカール大帝個人の力が優れていたということでしょうか。その後継者、ルートヴィヒ1世の時代は何事も無く過ぎましたが、その子らの間で領土問題、といいますか遺産をめぐっての喧嘩が発生したのです。
そして9世紀半ば、条約が結ばれ帝国は西フランク王国(フランスの母体)、東フランク王国(ドイツの母体)、中部フランク王国(イタリア半島北部を基盤)に分けられました。
この西ローマ帝国の子供らにも、民族大移動の最後の一波は押し寄せてきます。前述の通り、バイキングらによる定住が9世紀半ば頃より始まっており、西フランク王国に対しては、セーヌ川下流域に対して侵略定住を進めていました。
911年には、彼らの力を恐れた西フランク王シャルルは、ノルマン人首領ロロ【Rollon】に対し公位と、彼らが定住した土地をノルマンディー(ノルマン人の土地)とし、授けました。そうして彼はノルマンディー公となったのです*1。これは名目上は、公位であり西フランク王に臣従する形でしたが、実際にはほとんど自立した状態にありました。
この西フランク王国も、987年にはカロリング家が絶え、フランク王国よりパリ伯*2に任じられていたカペー家のユーグが推挙され、カペー朝を立てました。
しかし王とはいえ、その身はパリ伯であり、各地には同様の伯が大勢いたため、その権力はパリ周辺部に留まるものでした。
その20:ノルマンディー公
北欧のサガによれば“美髪王”ハラルド【】の家来に、「騒音の」エイステイン【】の子、“メーレ湖のヤール*1”ラグンヴァルド【Ragnvalds Möre-Jarl】がいました。そのラグンヴァルドの子ロールヴは、馬に乗れない程の立派な体格であったため、“徒歩の”ロールヴ【Gangu-Hrolf】と呼ばれていました。
このロールヴは大ヴァイキングと呼ばれるほどの猛者でもあり、バルト海沿岸を略奪していたある日、ハラルド王の領土を襲撃したそうです。それが王に知れ、ロールヴは追放されました。彼はそのまま西へと移動を続け、遂にセーヌ川下流域にたどり着き、あたり一帯の首領格になり、現地、西フランク王国の人間からはロロと呼ばれたそうです。
さて、これはあくまでも伝承であり、実証するものはありませんが、兎も角も北方人、ノルマン人であるロロは、西フランク王シャルルより公位と公領を貰い、着々と現地に帰化し始めます。
ロロの子供である二代目ノルマンディー公は正統の剣術で名を馳せた“長剣公”ギョーム【Guillaume Longue Épée】、三代目リシャール【Richard】は武勇のみならず、宮廷作法では貴族中の貴族と呼ばれるほどで、祖父こそノルマン人ではありますが、フランス王国の貴族として恥ずかしくないフランス人に変わっていました。
そのリシャールの娘、エンマ【Emma】と結婚していたのが、イングランド王エセルレッドです。
*1:「ヤール」族長の意。
その21:北海大王
そのエセルレッド王の統治下のイングランドでは、再びデーン人による襲撃が激化していました。まず一度、エセルレッド王はデンマーク王スウェインとの戦争で勝ち負けを繰り返した挙句、1013年にイングランドは征服されました。エセルレッド王は妻の実家を頼り、ノルマンディに亡命しますが、一ヶ月ほどでスウェインが落馬で命を落としてしまい、デンマーク軍は一時引き上げます。そしてエセルレッド王は帰国し、再び王位につきました。
しかし1015年、今度はスウェイン王の息子、クヌート王がイングランドに上陸します。エセルレッド王はこんども亡命をしようとしたのかもしれませんが、1016年に病のために命を落としてしまいました。そして王妃エマも兄弟であるリシャールが治めるノルマンディに亡命しようとしたところを、クヌート王の家来らに掴まります。
同年クヌート王はイングランドを征服します。そして彼はエセルレッド王の未亡人であるエマと結婚し地盤を固め、イングランド古来の伝統と法を尊重するのことでイングランドを統治しました。
このクヌート大王は一時はノルウェー王も兼ねる勢いで、その伝承では北海大王と呼ばれましたし、またキリスト教化にも勤めましたので聖王とも呼ばれています。
今、デンマーク王家を指す言葉としてクヌートの子ら【Knytling】という言葉があるそうですし、クニートリンガ・サガという伝承もあるそうです。
その22:王の帰還
しかしクヌート大王は1035年、41歳という若さで死亡します。エマにはエセルレッド王との間に子供がいましたが、クヌート大王との間にも子供がいたため省みられませんでした。
そして1042年、クヌート大王の子らが死に絶えノルマンディの僧院よりエドワード王子が帰還し、アングロ・サクソンの王がイングランドに復位しました。
さてアングロ・サクソンの王が帰還して、イングランドに喜びはあったでしょう。しかしそれは直ぐに落胆に変わります。ノルマンディー公を祖父や伯父にもち、そして亡命中の26年をノルマンディーで過ごした王は古フランス語で会話し、ウェストミンスター大聖堂を建てるも、それはノルマン風の建築でした。また彼は政治自体には興味が無かったため、貴族が政治を握ることになり、王はそれに対抗してノルマン人を引き立てるなど、イングランドは国内分裂状態に近い状態となるのです。
後にこのノルマン閥はクーデターにより追放されるのですが、そうなるとエドワード王は母エマの兄弟リシャールの子であるロベールの子、現在のノルマンディー公であるギョームとよしみを通じはじめ、1051年には相続者としての指名すらします。
そして1066年6月、後継者を持たずしてエドワード王は死亡しました。彼の後を臨むものとしては、アングロ・サクソン王朝の傍系としてはエドワード王の兄エドムンドの孫であるエドガー、エドワード王の妃であるエディスの筋ではその弟のハロルド、エマ王妃筋ではノルマンディ公ウィリアム、そしてカヌート大王の筋ではデンマーク王やスウェーデン王が王位を主張できる立場にいました。
その23:征服公
当時、ノルマンディー公領では、1035年、“華麗公”ロベール【Robert le Magnifique】が死に、その後を継いだのは庶子ギョーム【Guillaume le Bâtard】でした。彼はこの年、いまだ8歳。当然のように、公位を狙う者が出現し、長年の騒乱の末、1050年にノルマンディーを平定します。
その後、彼の目は前年までの自領同様に政局穏やかでないアングルテールに向けられました。そして1066年6月にアングルテール王が死亡するや、ギョームはアングルテールへ乗り出し、後を継いだ王を10月には打ち破り、アングルテールを征服、同年クリスマスにウェストミンスター寺院でアングルテール王として戴冠しました。これをもって彼は“征服公”ギョーム【Guillaume le Conquérant】と呼ばれるようになります。
この1066年はハレー彗星が訪れた年でもありました。ギョーム公によるアングルテール征服を記念したバイユーのタペストリーにもハレー彗星が描かれてます。
その24:アングルテール経営
ギョーム自身は辺境アングルテールの地を踏んだのは、10度にも及ばぬ程の回数で、その本拠地は依然としてノルマンディー公国におき、周辺諸侯と戦いを続けます。そしてアングルテールには代官を置き、大陸風の経営を苛烈に行いました。古来よりの慣習を尊重し、また州制度も引き継いだものの、イングランド統一あたりに生まれた古い封建制を打ち砕き、再編成を行ったのです。
まず彼は抵抗するアングル人領主より領地を没収し、自分と同族であるノルマン系フランス人の貴族や騎士たちに分配しました。そして厳格な行政・司法組織を樹立することにより、王権主導型の中央集権的封建国家を確立しました。それでいながら王の不在のために、王国経営にあっては王権直属の貴族らが会議に列席するという議会政治の下地も生まれつつありました。
更には教会改革を実施し、国王による教会支配を打ち立てます。
こうして支配者はフランス人、被支配者はアングル人となり、支配者層は古フランス語を話し、被支配者層はアングル語を話すようになりました。
これら証拠として挙げられるものに、1085年にアングルテールにて始めて行われた全国的な土地調査を元に1086年に作られた租税台帳・土地台帳「ドゥームズデー・ブック【Doomsday Book】」が上げられます。これによれば王権直属の貴族180人中174人がノルマン系フランス人でしたし、16ある司教座のうち15がノルマン系フランス人のものでした。
この土地台帳の名前は、そのまま1970年にはゲイリー・ガイジャックスがグレイホーク世界を始めて世に発表した同人誌の名前となります。
またこのノルマンディー公がアングルテールを支配する中、1070年にはシュールズベリ城が築城され、1080年にはウェールズ侯国トレヴリューにカドフェルが生まれました。そして1083年、シュルーズベリ大修道院の建立が開始されます。
その25:十字軍
その彼も1087年、フランス王との交戦中に死亡します。そして彼の有する土地は息子らに分配されました。まず長男ロベール【Robert】には、やはり一番重要な父祖伝来の地であるノルマンディー公の地位が譲られます。そしてその弟ギョーム【Guillaume】にアングルテール王の地位が譲られました。また娘たちもカスティリア王やブルターニュ公、ブロワ伯に嫁ぐなど、ノルマンディー公国は万全でした。
その最中に起きたのが第一次十字軍です。これはそもそもはセルジュール・トルコの拡大により、小アジアを奪われたビザンツ帝国アレクシオス帝がローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めたことに端を発します。
1095年にクレルモン公会議にて、ウルバヌス2世はキリスト教国諸侯に対し、ビザンツ帝国の救援のみならず聖地エルサレム奪回を呼びかけました。以前よりエルサレムはイスラム教国の支配下にありました。しかし以前は大過なく巡礼を行えていたのに対し、セルジューク・トルコ支配下になってからは、その巡礼が妨害されはじめた、というのが、エルサレム奪回の理由です*1。
こうして宗教的熱狂の高まりの中、1096年から1099年にかけてカドフェルも参加した第一回十字軍が始まります。
この十字軍は成功に終わりました。コンスタンティノープルから小アジアへと移動し、イスラム諸勢力と闘いながら南下を続けてエルサレムを奪回したのです。そうして征服した小アジア及びエルサレムにはラテン国家*2が創られました。
カドフェルがマリアムと出会ったのは1098年、ノルマン王ボヘムンド1世の治めるアンティオキア王国だと言われています。そしてカドフェルはこのラテン国家に滞在を続けますが、1113年に息子オリヴィエが生まれた頃にはその土地を離れていました。
その26:統一
再びアングルテールに目を向けますと、1100年、過酷な政治を続けていたギョーム2世が狩猟中に何者かの矢で殺されてしまいます。その後を継いだのは、“征服公”ギョームの末子アンリ【Henri】でした。そしてアンリの野望は田舎の一小国それに留まらず、1106年には兄であるノルマンディー公ロベールを破り、自身がノルマンディー公として父の旧領を再び1つに統一し、自分も父同様に大陸で政治を取りました。このアンリ統治下の1114年、ヒュー・ベリンガーがマイスベリに生まれます。
しかしこうしたノルマンディー公アンリも幸せばかりという訳でなく、カドフェル短編「ウッドストックへの道」で書かれている通り、1120年に嫡子ギョームを海難事故で無くし、男子の後継者をすべて失ってしまします。
そして彼は1127年、娘であるマチルド【Mathilde】をノルマンディー公にして、アングルテール王の後継者として指名しました。
その27:カドフェルな時代
マチルドは1128年、エニシダの枝を髪飾りとするなど伊達男“美男伯”としられたアンジュー伯ジェフロワと結婚します。このエニシダの髪飾りは、後に家名としても通用するほど有名だったようです。
遂に1135年12月、アンリが死去し、ノルマンディー公とアングルテール王の座がマチルドに移ると見られましたが、ところが女性の君主を嫌った貴族らは“征服公”ギョームの娘のうち、ブロワ伯エティエンヌ・アンリ【Etienne-Henri】に嫁いだ次女アデル【Adèle】の子、つまりはアンリの甥にあたる、ブロワ伯の次男坊、エティエンヌ【Etienne】を擁立します。
こうして国はマチルダ支持派とエティエンヌ支持派に二分され、内乱が起こりました。またこの内乱には無論のこと妻の援助としてアンジュー家が介入をし、マチルドはノルマンディー公国の奪還に成功します。エティエンヌは大陸に居場所をなくし、海を渡り辺境アングルテール王国に逃げ込みました。
さて、この関係はどこかで聞き覚えが無いでしょうか。そうです。この今こそがカドフェルの時代です。マチルドとは女帝モード【Empress Maud】のことに他なりません。エティエンヌとはスティーヴン王【Stephen】のことに他なりません。カドフェルの息子オリヴィエが仕えるダンジュー家とは、女帝モードの嫁ぎ先アンジュー家なのです。
この時代とはフランス人がフランス人同士、フランスで好き勝手に戦っている時代であって、アングルテール、すなわちイングランドとは金庫であるとともに、何かあったら逃げ込む先でしかなかったのです。
その28:その後の上り坂
紆余曲折ありますが、エティエンヌは王位を守りつづけます*1。
しかし彼もまた嫡男を失っており、1153年にマチルドの息子アンリ【Henri】を後継者と指名し、1154年死亡します。こうしてイングランド王の座はアンリの下に移りました。王朝は男系で見るのが多いのか、ここでイングランドでは王朝名が変わります。エティエンヌまでをノルマン王朝と呼び、アンリ以降をアンリの父の家名から取りエニシダ【planta genista】の王朝と呼びます。
そうプランタジネット王朝の始まりです。
こうして再び“征服公”ギョームの旧領が復活しました、と言っていいのでしょうか。いや、話はそれに留まりません。アンリは1152年にアリエノール・ダキテーヌと結婚していました。このアリエノール・ダキテーヌの父もまた後継者を失っており、アリエノールがフランス南部を占めるアキテーヌ公領の後継者でした。
アンリは父からアンジュー伯領、メーヌ伯領、トゥーレーヌ公領を、母からノルマンディー公領を、母の従兄弟からはイングランド王国を、妻の実家からはアキテーヌ公領を相続します。
またイングランドではウェールズの有力者と友好関係を築き封臣として迎え、アイルランドの諸侯の大部分を軍門に下りらせます。大陸西では三男坊のジョフロワをブルターニュ公の娘と結婚させ、そのまま息子をブルターニュ公に据え、一方南ではトゥールーズ伯がアンリの臣下となります。
歴史にアンジュー帝国と呼ばれる、今で言うフランスの西半分およびイギリスのほぼ全土を支配下に治めた一大国家の誕生です*2。
その29:その後の下り坂
こうした隆盛はひとえに沢山の子供がいたからだとも言われています。彼はフランス王家を始め、周辺国家の多くに子供たちを縁付かせ、その安定を図っていました。
しかしそれも相続となると逆に問題としかなりませんでした。
1169年に作成された遺言書によれば、長男の若アンリ【Henri le Jeune】には父祖伝来のノルマンディー公領、アンジュー伯領、メーヌ伯領、トゥーレーヌ公領、イングランド王国を、次男のリシャール【Richard】には妻の相続地アキテーヌ公領を、三男のジョフロワ【】はブルターニュに婿入りさせているから問題なし、と、そして四男ジャンには土地は見送られて、彼は“欠地王子”ジャン【Jean Sans Terre】と呼ばれました。
この後、長男である若アンリが自分に臣従するように兄弟たちに求めますが、母方の家を継いだリシャールはこれを拒否します。そして長男・三男の連合軍と次男リシャールとの戦争が勃発し、その兄弟戦争の末、若アンリが急死しました。これによって若アンリが継ぐ予定の諸領はみなリシャールに移ります。
こうなってジャンも領土が欲しいと主張しました。アンリもそれは当然とリシャールに、父祖伝来の地を継ぐのだからアキテーヌ公領をジャンに譲るよう言いますが、リシャールはこれも拒否します。
こうして今度は親子戦争が勃発します。リシャールは、カルヴァドスの銘柄にもなった【Cœur de Lion】、英語で言うなら【Lion-Hearted】、即ち“獅子心公”と異名をとるほどの戦上手ですから、父に怯むことなく戦争を続け、1189年アンリを打ち負かし、その戦後アンリは病没します。ここにアンジュー帝国は“獅子心公”リシャールの下に復活しました。
こうして再び脅威となったアンジュー帝国に対し、フランス王家は策謀を続け、家臣団の分離を計り、アキテーヌ公領で反乱が勃発します。この反乱鎮圧の最中、受けた矢傷が悪化して、リシャールは落命します。
結局、すべてを引き継いだのは“欠地王子”ジャンでした。
その30:その後の転落
しかしこのジャンはその性、凶悪な人物で家臣たちの信望も薄い人物でした。
これにつけこんだのがフランス王フィリップ2世で、1202年、アンジュー帝国への侵攻を開始します。しかも有力諸侯は皆、フランス王家に鞍替えすると言う始末で、アキテーヌ公領を残して次々とその所領を失いました。
彼が負けたのはフランス王の権力が意味をなしたが為でした。アンジュー帝国とは言え、結局はフランス王に臣従している立場であったからです。フランス王家の権威の傘の下にあったからこそ、有力諸侯はその臣従先を王家に移したのです。
そして彼にはフランス王の権力の及ばぬ所領がありました。つまりイングランドです。彼は海を渡り、イングランド王として居座ります。こうして海外領土の大半を失ったことから、日本では“失地王”ジョン【John Lackland】などと勘違いされるはめに陥ります*1。
しかしまだ彼も彼の子らもイングランド人ではなくフランス人であり、旧領をあきらめたわけではありませんでした。